着物作家・久保田一竹とは?買取額はどのくらい?
今回は久保田一竹(くぼたいっちく)についてまとめてみました。
久保田一竹は『辻が花染め』の完全再現を試み、独自の技法である『一竹染』を確立させた染織家です。
彼が染めた『一竹辻が花』は日本のみならず海外でも高い評価を受けており、「光のシンフォニー」と称されています。 今回はこの久保田一竹のプロフィールや、過去事例をもとにした買取金額についてお伝えしていきます。
目次
久保田一竹とはどんな着物作家?
久保田一竹は1916年、東京都の神田で生まれました。
神田は江戸時代から「商業地」として発展しており、電車の開通もいち早く行われた街です。久保田一竹の父はこの神田という地で骨董店を営んでいました。
しかし1923年、関東大震災が発生。父の店が全焼したことを受け、少年だった久保田一竹は「自分の腕に技術をつけて食べていかなければならない」と思うようになりました。
小学校のときから絵を描く才能があった久保田一竹は1931年、14歳で親元を離れ、友禅師として活躍する小林清のもとを訪れます。
小林のもとで友禅染めの基礎を学びながら歌舞伎絵を得意として活動していた日本画家・大橋月皎(おおはしげっこう)に人物画を、水墨型画家である北川春耕(きたがわしゅんこう)からは山水画を学びました。
そして1937年、上野の帝国博物館(現在の東京国立博物館)で『辻が花』と出会います。
『辻が花』は室町時代に栄えた染め技法の一種ですが、「友禅」の流行によりに完全に廃れてしまっていたため、「幻の染色」とされていました。
久保田一竹はこの『辻が花』をどうにか自分の手で再現したいと奮起。
「再現だけでなく現代版の『辻が花』を確立させたい」と、染織に関する研究を開始しました。
しかし1944年、太平洋戦争に駆り出されることになり、その後は波乱の時期を迎えます。敗戦後、捕虜となってしまった久保田一竹はロシアにとどまらざるを得ない状況となってしまいました。
一説によると、久保田一竹は抑留されているという状況下でも監視の人の目を盗み、薬品を使って染色を試したり、毛皮の毛を筆にして絵付けの練習をしたりするなど、新たな辻が花を完成させるという目標に向けて励んだといいます。
帰国してからも努力は続き、約20年の歳月が経過した1961年、独自の染色方法による『一竹辻が花』が完成します。
情報の少なさゆえ、室町時代に行われていた手法での「完全復活は不可能」と判断した久保田一竹は、使用されていた布を「練抜(ねりぬき)」から「縮緬(ちりめん)」に変更し、天然の染料が使われる草木染めから化学染料を使用するなどして、現代版の辻が花を完成させたのです。
こうして大きな注目を浴びることになった久保田一竹は1977年、自身初の展覧会を開催。また、1990年にはフランスからフランス芸術文化勲章「シェバリエ章」を受賞するなど、海外からも注目される存在となりました。
1994年には「久保田一竹美術館」を開館。
1995年、アメリカ・ワシントンで超大作『宇宙の威厳』の一部をスミソニアン博物館に展示したことでも話題になりました。
生涯で発案したデザインは80点を越えるといわれている久保田一竹。
2003年に生涯を閉じましたが、現在は長男の悟嗣(さとし)氏が2代目・久保田一竹を襲名しており、その意志は受け継がれています。
室町時代の染色方法「辻が花染め」とは
江戸時代に完全に廃れてしまった「辻が花」。
現在も明らかになっていないことが多いといわれていますが、辻が花は「絞り染め」の一種ということになります。
絞り染めとは、布を絞ったり、結んだときに出来る球体を利用したりして染める技法のことで、方法は多岐にわたります。
また、デザインによっては「染める」という工程の中にあえて布地の白を活かす必要がある場合もあります。
その場合は蝋など特殊な素材を使って、一部分を染めない「防染」という方法を用いることもあります。
「辻が花」は「染め」と「防染」といった基本を活かし、これに絵付けや金箔、刺繍を施しています。
安土桃山時代にはすでに誕生していた技法とされており、かの豊臣秀吉も選別の品に選んだといわれています。
久保田一竹の作品は「落款」に注目!
「落款」とは、芸術品もしくは美術品の作者が「自身が手がけたもの」と示すサインや印をさします。
この落款は世襲制の家柄であっても同じものを用いることができず、「ひとりにつきひとつ」とされているものです。例外はありません。
現在、久保田一竹は2代目が襲名しているため、世の中にある『久保田一竹作品』『一竹辻が花』は2人の作者が仕上げた2種類が存在することになりますが、前述した「落款」を見ればどちらの久保田一竹が手がけた作品であるかが判別できるようになっています。
ちなみに初代・久保田一竹の落款は「一竹」の名を使用しています。
「一」が漢数字で、「竹」は象形文字を用い、これを組み合わせています。
また「一」の真下に「竹」があり、左右対称であるという特徴があります。
一方、2代目・久保田一竹の落款ですが、彼も「一」と「竹」を使用しています。
また、漢数字と象形文字の組み合わせであるという点も初代と共通しています。
初代との違いは、「一」と「竹」のバランスが異なる点です。
2代目は「一」を中心ではなく、やや左側に、そして「竹」をやや右側に置いています。
背景に使用している赤色が同じであること、「一竹」という字が同じであることから、久保田一竹作品をはじめて手に取られる方は「わかりにくい」と感じると思いますが、ポイントは「左右対称であるか否か」です。
「初代は左右対称」「2代目は左右非対称」と覚えておけば、すぐに見分けられるようになります。
なお、どちらが高額になるかという点についてですが、着物買取の世界では初代のほうが高価買取の対象になる傾向があります。
これは初代がすでに亡くなっていること、「現存するものしかない」という希少性があるためです。
久保田一竹の作品紹介
ここでは久保田一竹の代表作についてご紹介します。
打ちかけ『富士山/恩』
女性の婚礼衣装として用いられる「打ちかけ」。
初代・久保田一竹は日本が誇る富士山を大胆に、そして色鮮やかに表現しました。
青や紫で表現した富士山は雄々しく、頂上付近の霞が空気の薄さまでも再現しているように見えます。この作品は催事などで一般公開されることもあるようです。
『光響(こうきょう)』
全80作品からなる『光響』は自身最大のシリーズ作品とされており、四季、富士山、宇宙などから構成されています。
草木染めでは再現できない、色鮮やかな絵付けはまさに「豪華絢爛」。大胆に、かつ細かな絵付けによって現れる「繊細さ」が大変美しい作品となっています。
久保田一竹の作品の買取価格はどのくらい?
久保田一竹の作品は中古市場でも非常に需要が高く、状態のいいものは高価買取が期待できます。
過去事例では1着30万円で買い取られたことがあり、時期によってはさらに高い価値がつく場合もあります(着物の価値は時期によって変化するため)。
久保田一竹の作品をお持ちの方は一度専門業者の査定を受けられてみてはいかがでしょうか。
着物の査定は、
・保存状態.
・希少性
・付属品(証紙や作者のものだとわかるサインつき桐箱など)
これらが揃っていることで評価額が上がるといわれています。
古いものでもしっかり手入れがされているもの、また付属品がしっかり揃っているものであれば高価買取が期待できます。
なお、こうした条件に満たないものでも買取が可能な場合もあります。
福ちゃんは久保田一竹の作品など、作家物着物の買取実績も豊富にございますので、ぜひ弊社の無料査定をご利用ください。