着物作家・平良敏子とは?買取額はどのくらい?
今回は平良敏子(たいらとしこ)についてまとめてみました。
平良敏子は『喜如嘉(きじょか)の芭蕉布』を世に広めた第一人者として有名な着物作家です。
「さらっとしていて体に貼りつかない」 「湿気が沖縄に最適だ」 と非常に重宝された芭蕉布ですが、現在では「幻の織物」とされています。今回は平良敏子のプロフィールや芭蕉布が幻と呼ばれる理由、そして気になる買取額についてお伝えします。
目次
平良敏子とはどんな作家?
平良敏子は1921年、沖縄県の北部にある大宜味村喜如嘉で生まれました。
平良家は古くから続く由緒ある家柄で、父は芭蕉布の販売につとめ、母は芭蕉布を織る職人でした。幼少の頃から母親が芭蕉布を織る姿を見て育ったという平良敏子は、10歳のときに母から織物を習います。
なお、この頃に母から教わったのは大きな機械を用いて織る芭蕉布ではなく、小さな敏子にもできるような木綿、絹を用いた織物でした。
裕福な家庭で少女時代を過ごした平良敏子でしたが、祖父の死によって生活が一変。経営に向いていなかった父が家長となったこと、世の中が不況であったことが重なり、敏子は喜如嘉尋常高等小学校を卒業したあと上京し、就職することになりました。
1939年、平良敏子が18歳になった頃、結婚の話が舞い込みます。しかしこの頃、日本は戦争の時代を迎えていました。平良敏子の夫は仮祝言を終えるとすぐに戦場に出向くこととなりました。
1944年、平良敏子は第4次沖縄県勤労女子挺身隊に参加。
生まれ育った沖縄を離れ、岡山県にある航空機制作所で「副隊長」として勤務することとなった平良敏子。隊長だった女性が体調を崩した際はリーダーとして懸命に働きました。
1945年、終戦。航空機製作所と紡績工場の社長を兼任していた大原総一郎は社員に織物を学ばせることを決意します。
このとき挺身隊として懸命に勤務していた平良敏子や数名の女性に「織物をやってみないか」という話を持ちかけ、敏子はこれを快諾し、染織家である外村吉之介の指導のもと、手織りや組織織を学びます。
1946年、沖縄に戻った平良敏子は、大原社長の「沖縄に戻ったら沖縄の織物を守り、育ててほしい」という言葉を胸に、芭蕉布の復興にいそしみます。
平良敏子が作ったランチョンマットや小物は駐留していたアメリカ軍の兵士たちにも高く評価され、「芭蕉布」は少しずつ知名度を上げていきました。
しかし従来の製造方法、そして工程を考えると採算が合わず、共に働く女性たちは貧困状態に。
そこで、「働いている女性みなが対価を得られるように」と考えた平良敏子は、国から助成金を得るために「喜如嘉芭蕉布工業組合」を設立しました。
また、多くの人手が必要となる芭蕉布作りを途絶えさせないよう、後継者の育成にも力を入れます。人材のスカウトは自ら行いました。
そんな努力の甲斐もあって、平良敏子は作家としての評価を得るようになり、彼女が取り組んできた芭蕉布もまた、その存在をさらに知られるようになっていきます。
1973年、敏子は『現代の名工』に選出されます。
そして翌年、「喜如嘉の芭蕉布」が重要無形文化財となりました。
1980年、日本工芸会の正会員となって以降は、長男の妻で敏子の義娘にあたる平良恵美子を後継者とし、「喜如嘉の芭蕉布」を守り、育てる活動をし続けています。
そして2000年、国の重要無形文化財「芭蕉布」の保持者に認定。
90歳を過ぎてからは自分で織る頻度は減ったものの、現在も現役で指導を行い、後継者の育成に力をいれています。
重要無形文化財『喜如嘉の芭蕉布』
喜如嘉の芭蕉布は、平良敏子の出身地である大宜味村で作られる織物で、芭蕉の繊維を用いて作られているという特徴をもちます。
芭蕉の木自体は沖縄で自生している植物ですが、「喜如嘉の芭蕉布」で使用する芭蕉は自分たちの手で栽培し、育てます。
糸にするまでにかかる年月は、約3年。
糸にするためには手作業で下処理を行い、いくつもの工程を必要とします。
また、芭蕉布一反を織るためには芭蕉の木を約60本使い、「織り」には約3ヶ月もの時間を使います。
このように限られた数しか生産することができないことから、喜如嘉の芭蕉布は「幻の織物」と呼ばれているのです。
ちなみに、平良敏子が復活させたことで有名な芭蕉布ですが、始まりは13世紀ころだといわれています。
当時は琉球王朝の王族や貴族しか身に付けることが許されなかった「高級品」でしたが、時が流れるにつれ、一般の人々も身に付けたり、自家製の芭蕉布を織ったりするようになったといいます。
ただ当時の芭蕉布は無地がほとんどで、模様があったとしても単純な縞模様でした。柄が織られるようになったのは明治以降で、従来の芭蕉布に美しさや芸術性が加わるようになりました。
平良敏子の作品紹介
ここでは平良敏子の作品を紹介します。
芭蕉布着尺『トーニ十字一玉カキジャー』
1983年、第30回日本伝統工芸展に出品された本作品。
全体に十字があしらわれ、この十字に細かいS字型の模様が加えられています。
十字の柄は沖縄県の織物によく見られる伝統的な模様です。難易度が高く、規則正しく配置するのは極めて難しいといわれています。
芭蕉布着尺『コーシ絣』
この作品は1991年に開催された第38回日本伝統工芸展に出品された作品です。
こちらは「国の重要文化財として作られ、整斉とした縞と絣がまことに美しい」として、日本工芸会奨励賞を受賞しています。
芭蕉布着尺『色違い十字トゥイグワー』
トゥイウグワーは「鳥の柄」という意味で、沖縄では伝統的な図柄とされています。ツバメのようにも見える「トゥイウグワー」に十字がふたつ添えられ、これらをワンセットとした柄が一面にあしらわれています。
こちらは1995年に開催された第30回西部日本伝統工芸展に出品された作品で、本作品は正会員賞を受賞しています。
平良敏子の作品の買取額はどのくらい?
現在は後継者の育成がほとんどであるという平良敏子。
平良敏子本人が織った作品は非常に希少で、買取に出した場合は高価買取の対象になるといいます。
過去には20万円で買い取られたという実績もありますし、着物は時期によって価値が大幅に変わるので、さらなる高値がつく可能性もあります。もし平良敏子の作品をお持ちで売却を検討されているという場合は一度査定を受けてみるとよいでしょう。
なお、福ちゃんは平良敏子の作品、喜如嘉の芭蕉布の買取にも力をいれています。
査定は無料です。着物に精通した査定士が丁寧に査定をいたしますので、ぜひお気軽にお問い合わせください。